新潮文庫の夏目漱石の『吾輩は猫である』を二冊持っている。というと、随分と『吾輩は猫である』のマニアのように聞こえるが、別にそうではない。今現在、読み進めている最中なのだ。
一冊目の『吾輩は猫である』は、ブックオフで108円で買ったもの。この一冊で、半年ほど前に確か三分の一程度までは読み進めていたが、忙しかったか何かでちょっと読まないでいたら、本棚にすっかり落ち着いてしまっていた。それで最近になってまた読み出そうと思ったのけど、どうも文字が小さいことが、読むことへの抵抗となっていることに気づき、書店で新品を買った。
僕が最初にブックオフで買ったものは、昭和63(1988年)年のもののようで、今売られている版よりも、何段階か文字が小さかった頃のものだ。実際それらを見比べてみると、だいぶ印象が違う。現に、かの有名な「吾輩は猫である。名前はまだない。」という書き出しがどちらも5ページで、「有難い有難い。」と、物語が終わるページが古い方が475ページ、新しい方が545ページなので、だいぶ差がある。
最近のベストセラー本は離乳食
さて、先日Amazonでとある本(いや、ちゃんと言おう。ホリエモンの『多動力』だ)のレビュー欄をつらつらと眺めていたら、あるレビューで、「林さんが『最近のベストセラー本は離乳食』と言っていた云々」と書いてあった。林さんとは多分「今でしょ」のあの人だろう。
なんだか、この書き込みを読んだとき、離乳食とは随分と言い得て妙な表現だなと感心した。例のホリエモンの『多動力』も、書店で立ち読みをしたことがあるのだが、随分と中身の薄いことに感心した。まるで、噛むことができない人間でも食べられるように、多めの水分で炊いた米、すなわちお粥のように、消化するのは容易すそうなものであった。そして、その隣に置いてあったメンタリストなんとかいう者の、胡散臭い本も開いて読んでみたが、こちらも負けんとばかりに、中身が薄った。まるで、達人が削った鰹節のようだ。
わかりやすい説明の裏には
少し今回の本筋とは外れるが、最近の傾向として人々は皆、何でもかんでもわかりやすい説明と言うものを求めていると感じる。そして、説明する側の人間は、いかにわかりやすい説明をできるようになるか、常に苦心している。僕だって、こう見えてわかりやすい文章を書くことくらい意識はしている。しかし、同時にあんまりわかりやすいものを求める姿勢もどうかと思っている。
実際、やってみると気づくのだが、得てしてわかりやすい説明というものには、情報を端折る必要が出てくる。全てを一から十まで説明していては、長ったりしくてわかりにくい。だから、多少誤解が生まれても仕方なしと考え、少し端折る。つまりこの瞬間に、説明する側から嘘が生まれることも充分あり得るのだ。だから、読み手はわかりやすく書かれた情報を求める以上、その情報が100%正しいとは思い込まない方がいい。場合によっては、わかりやすく書くという手法を利用して、書き手の都合のいいように情報が取捨選択されることだって、あり得る。(というかある)
デカ文字の弊害
さて、最初の話に少し戻ろう。『吾輩は猫である』の新しい版は、やはり文字が大きくて読みやすい。その代わり、文字が大きい分ページ数は増える。しょうもない話のようだが、『吾輩は猫である』の文字が大きくなったからといって、ページ数が増えることを認めなければ、物語の途中で紙幅が尽きることになる。
夏目漱石のように、すでに書かれた本の場合、文字を大きくしたならばページ数を増やすことで解決できる。問題は新しい本だ。今度はその大きな文字を前提に本を構成するわけだから、必然分量が相対的に減り、内容が薄くなりがちだと思う。最近の新書を読んでいると、たまにびっくりするくらい文字が大きいものがあるが、そういう本は、まるで漫画のごとく、すぐ読めてしまう。最近の新書は中身が薄いだとか言う指摘もたまに聞くが、あれもあながち間違いじゃないんだろう。
新聞のポイントも軒並み大きくなった
新聞のポイントが揃いも揃って大きくなったのは、2000年頃のことだそうだ。やっぱり高齢化に合わせて、そうしたのだろうが、記者からとってはあまり嬉しいことではないらしい。文字が大きくなった分、情報量が少なくなってしまうからである。書き手で、文字数が減って喜ぶのは、きっと大学生くらいだ。伝えたいことがある人間からとって、文字数の上限が減ることはつらい。
終わりに
さて、ここまで書いてきて、何か一つの明確な主張があるようで、特にない。ただ単に、自分が感じていた最近の出版業界についての不平不満を、まるで爺さんのように撒き散らしただけさ。
そういえば、「読書というものは、ざるを片手に川に入って、ダイヤモンドを探すような行為だ云々」といったような言葉を聞いたことがある。すべての本は神聖だと言わんばかりに、「すべての本から学ぶ価値がある」といったことを、どっかの胡散臭いブロガーが書いてあったが、それは嘘である。読書とは、まるでテキ屋のくじ引きかのごとく、外れが多い。
もしかしたら、ホリエモンだの、メンタリストなんとかだの、なんとかする勇気だの、こうも劣悪な本が、百田なんとかのつるっ禿げの薬缶やら、ナントカのカントカという韓国嫌いの日本好き米国人の本と竜騰虎闘の様を繰り広げている最近の書店で良書を見つけることは、汚い点に関してはガンジス川に負けるとも劣らないうちの近所の鶴見川で、どっかの奥さんが投げ捨てたダイヤの指輪を探すことくらい、難しいのかもしれない。
だから、とうとう僕は疲れてしまって、ひとまず古典に逃げることにした次第。
ちなみに、例の『吾輩は猫である』については、どうやら夏目漱石を読むなら岩波書店のものの方が注も豊富で良いと聞いて、図書館で『定本 漱石全集——第1巻 吾輩は猫である』を借りてきて、途中から読み替えた。「結局図書館本かい!」と、自分でも突っ込まずにはいられない。
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