親を嫌いになってもいいと教わる現代

新潮文庫版『ヴィヨンの妻』 雑記

先日Twitterのタイムラインに、誰かがいいねしたこんな記事が目に入った。

Twitterの「いいね」したツイートが勝手にタイムラインに表示される機能は、改悪のほかないと思っているけども、たまには役に立つもあるようだ。リツイートはちょっと躊躇しても、いいねならするといったこともあるしね。

勝手にツイートを記事に使わせてもらって、申し訳ないけど、あくまでも資料として、ね。

毒親のことは嫌いになっていい

相談者は、19歳の女子大生で、もう大人なのに、未だなんでもコントロールしようとする母親に辟易しているという相談。いい加減もう少し大人に扱ってほしいと。

それに対して相談を受けた渡辺えりさんは、第一に相談者の母親が異常であると述べ、直ちに家を出て一人で暮らすことを勧めている。そして最後に、「そんな母親のことは嫌っていい」という。

なんだかわかるなあ。だっているんだよなあ、こういう母親。むしろ程度の差はあるとはいえ、今時ゴロゴロといる気がする。

少し病み気味というか、精神的に不安定な女の子(俗に言う「メンヘラ」と呼ばれる女子)って、大抵の場合、根本的な原因が母親との関係にあると僕は思っているんだよね。やっぱり、娘と母親という組み合わせが多いのは、男だとまだ「うるせえ!」って反抗するからなのかな。母親だって、息子に反抗されて万が一、家庭内暴力にでも発展されるのは怖いから、そんなに無茶な態度はできないんじゃないかと。あと、母と娘、父と息子といった同性同士の親と子というのは、どうしても心の奥底に嫉妬心というのが芽生えてしまうらしい。

念のために言っておくと、僕はこの渡辺えりさんが言っていることには、全面的に賛成。
こんなの全くもって、おかしな親だと思うし、そんな親の近くにいても不幸になるばかりだとでしょう。そして、そんな親を好きでい続けなきゃいけないなんて思うこと自体が、不健康。自分の人生を不幸に陥れているだけの存在なんだから。

でも、どんな毒親だって、子供に対して優しい一面も愛情もあるんだよね。だからこそ、嫌いになれなくて辛い。こういう気持ちもわかるなあ。でもね、悲しいかなその愛情というのは、屈折した愛情なんだよね。

子は親を選べない

よく言われるように、子は親を選べない。僕の場合、父親には恵まれなかったけど、母親に関してはよくできた人間だったことが幸いだったと思っている。

そして、不幸にも、自分の親が毒親であった人は、こう悟るしかない。
運が悪かった。随分と残酷なようだけど、こう思うしかほかない。そして、せめてできるだけ早く、そして手の届かない場所で生きることが最善の策でしょう。

親を嫌いになってもいいと教わる現代

さて、ここから本記事の本筋。
僕が問題にしたいのは、タイトルにしたように、親を嫌いになってもいいということを、他人に教えてもらう現代ってなんなんだろうということ。

だってさ、僕は碌でもない親のことを嫌いになるなんて、そんなこと当たり前だと思うんだよ。それをあえて教えてもらうことで、目から鱗が落ちるように感激する現代人。ひょっとして、だいぶまずいところまで、病んでいるんじゃないかしら。

そういえば二年ほど前に、『家族という病』という新書が出て、かなり売れていた。未だにブックオフに行けば、「話題の本」とかいって、棚に置かれていたりするんだから、少しびっくりする。

その内容はというと、だいぶお粗末なもので、著者自身の実体験とか身の回りの知人などの話を書いた上で、「こうではないか?」「いや、こうに決まっている」といった具合に、論を強引に進めていく類の駄本なんだけれども、そんなのがバカ売れして、しまいには続編まで出ちゃっているのだから、なおびっくりしてしまう。

結局のところ、現代は多くの人が、家族や親との関係というものに違和感を多少なりに感じているからこそ、この手の「親を嫌いになってもいい」とか、「家族は病だ」とかいうある種のタブー的な主張に対して、妄信的になってしまっているのではないだろうか。

なんてことはない、そんなの誰だって言える、当たり前のことだ。

「家庭の幸福は諸悪の元」と言った太宰治

太宰治に「家庭の幸福」と言う短編がある。
この作品については、いつか個別に取り上げたいと思っているので、詳細は省くけど、とりあえず僕はこの短編にものすごく影響を受けてしまった。(言ってしまえば、太宰治の中で一番好きかもしれない)

その「家庭の幸福」の最後に、太宰治は恐ろしい結論を得ている。

曰く、家庭の幸福は諸悪の本。

太宰治『ヴィヨンの妻』新潮社、2013年、188頁。

太宰治が言ったことは、家庭の幸福というある種のエゴイズムが、その裏では別の場所での不幸を生み出しているという意味合いであって、今回のような毒親の問題のように、親のエゴイズムとはおそらく関係がない。

でもね、僕はどうしてもこの「家庭の幸福は諸悪の元」と言う言葉を、拡大解釈してしまう癖があって、何にでも当てはめてしまうんだよね。そうすると、なかなかすっぽりとはまってしまったりしちゃうもんだから、不思議でもある。

案外、太宰の主張は「家庭の幸福というのは、そんなに美しいものではない」という点で、結局のところ今回の場合でも根本的なところは同じなのかもしれない。

なんにせよ、こんなことを言った太宰治はやはり偉大だ。

なお「家庭の幸福」は、新潮文庫のものだと『ヴィヨンの妻』に集録されている。

昔は親もすぐに死んでた

そういえば、夏目漱石の小説などを読んでいるとよく思うのが、昔は当たり前のように、親が早くして死んでいる。

「三四郎」では、お父さんはとっくに死んでいて、母を田舎に残して東京の大学に行く話だし、「坊っちゃん」では、両親共早くして死んでいる。

「こころ」では、死ぬ描写こそ描かれていないけれど、父親が危篤状態になって、田舎に帰っているときに、物語はクライマックスを迎える。(そして、東京の先生から遺書の手紙が届いたらすぐに、医者に浣腸でもなんでもして、とにかく数日間はもたせておいてくれと言い残し、父親のことはほったらかして、急いで東京に向かうという、なんともまあ無茶苦茶なことをしている。)

もちろん、「それから」の主人公の父のように、息子が30代になっても、元気に生きていた人間もいるとはいえ、現代とは比べるまでもなく、当時は親が当たり前のようにすぐに死んでいた。ということはつまり、子供にとっていい親も悪い親もどちらも死んでいたのだから、良くも悪くも親の束縛から逃れることは現代よりも、もっと楽だったとも言える。

例えば、「坊っちゃん」での両親のような、優等生の長男ばかり可愛がっておいて、次男の坊っちゃんに対しては、「お前は駄目だ」と常々言ってくるような、これまた別の種類の毒親だって、あっけなく死んでいる。

漱石が生きた明治の時代と、平成も終わりを迎えつつある現代では、平均寿命だとかあらゆる面で違いはあるとはいえ、どうも考えてこんでしまう。平均寿命が伸びるということは、害悪のような人間だって長生きしちゃうんだから、長寿の社会なんていい面も悪い面もあるに決まっている。

終わりに

当ブログで初めて人生論だとかそういうことを書いたかもしれない。あんまりブログでこういうことばかり書いているのは、結果的に浅薄な人間だと言っているようなものであって、やたらと書かない方がいいのかもしれない。

とはいえ、やっぱり書いてしまったのは、今回の例のツイートを見たときに、どうしても引っかかるものがあったんだよね。なんというか、なんでみんな、こんながんじがらめになってしまっているんだろうと。

最近じゃ、好きなことで生きていくだとか、自由な生き方なんていう薄っぺらな主張がよく見られるけど、要するにこういうことを高らかに宣言しないといけないくらい、みんな自由というものに憧れているんだろうな。

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